こんにちは。ライターの深田です。
三浦半島に引っ越してから、1年半が経ちました。当時、移住したことを友人に伝えると、「まず油壷の海がとてもキレイだから絶対行って!」と神奈川県民は口を揃えて言いました。
さっそく油壷を検索すると…歴史的な跡地!
ん?油壷湾の由来は、三浦一族が討ち取られた時に湾全面を覆い尽くした血が、まるで油のように見えたことにから名付けられたという、恐ろしすぎる説があるそうです。そんな悲しい歴史がある海が本当に美しいのか、半信半疑ながらも重い足を運んでみることにしました。
京急線三崎口駅より京急バス「油壺温泉」のバス停を降りて、まっすぐ奥に進むと「京急油壺温泉キャンプパーク」が見えます。その右側に細い道があり、ジャングルのような階段を降っていくと三浦一族のお墓を発見!緑につつまれた先にあるお墓は、なんとも神秘的な雰囲気が漂っています。
そして、本題の油壷湾が一望できる道を見つけました。散歩コースになっているこの道には、歴史を紹介する案内板がいくつかありました。油壷湾はとても静かで、壺に入った水のように穏やかであったことから油壷という由来の説もあります。その名の通り、台風の日は船の避難港にもなるそうです。
クネクネとした散歩コースを下っていくと、そこは息を呑むほど美しい風景が広がっていました。透明度の高い海と富士山が一望できる贅沢なスポットです。天気のいい日は、夕日がおすすめです。タイミングを狙えば、ダイヤモンド富士も見えそうですね。
歴史に疎い私は、三浦一族について無知でしたが、この美しい土地を開拓してくれた先人達に興味を持ち始めました。
そんな時!昨年、大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されてました。
今まで大河ドラマを見たことがありませんでしたが、あの三浦一族がでるというのです。楽しみながら住んでいる土地の歴史を学べるなんて、一石二鳥!”これは見ない手はない”と思いますよね?
皆さまは、三谷幸喜さん脚本の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をご存知でしょうか。史実を踏まえたフィクションで、実に見ごたえのあるストーリーとコミカルな演技がとても人気でした。
ご存じの方は、山本耕史さん演じるクールで切れ者役の三浦義村のファンの方も多いと思います。三浦市の至るところで「鎌倉殿の13人のゆかりの地」ののぼりがあります。(放送終了のため、現在はのぼりがない場合があります。)
そこで今回は三浦に住んでる人も、これから移住を検討中の方も、三浦暮らしがもっと好きになる、楽しくなる、鎌倉時代のゆかりの地をいくつかご紹介します。
三浦義意公の供養墓
神奈川県三浦市三崎町小網代1095-301.源頼朝が自ら植えた銀杏をご神木とする『海南神社』
1180年の源頼朝が兵を集めて戦っている頃、三浦義明は源平合戦を海南神社で占ったそうです。白と赤の狐が現れて戦い、白の狐が勝ったので源氏についたのだと伝えられています。占いの信仰深い時代は、表現が美しいですね。
そして祈願成就された1192年、いい国作ろう鎌倉幕府ができました。その年に祈願を祝い、銀杏の木を源頼朝が自ら植えたそうです。その木は既に樹齢800年もあり、生命力を感じられそうですね。
その中の一つに龍神社の上にかかる銀杏は、龍神の姿に見えるといわれているそうです。
また、畠山重忠に本拠の衣笠城が落とされた三浦義明は自刃。そして残された三浦義澄・三浦義村・和田義盛の一族たちは久里浜から安房国(千葉県)へと船で向かいました。食料不足と疲労のなか、龍神に祈願すると「筌」(魚介類を閉じこめて捕獲する漁具)が流れついたおかげで魚を獲ることができて、飢えをしのげました。のちに義盛は、筌が龍となって天に昇る夢を見たことから、三浦七福神の一つ「筌龍弁財天」として祀られています。
海南神社は第2話で紹介されました。ちなみに、わがミサキステイルの集合写真もこの海南神社前です。三崎港のみんなに愛され続けているこの神社は、ユネスコ無形文化遺産となった歌舞「チャッキラコ」も有名です。チャッキラコとは、毎年1月15日に海南神社や三浦市仲崎・花暮地区で、豊漁・豊作や商売繁盛などを祈願する女性のみで踊られる民俗芸能の一つです。
海南神社
神奈川県三浦市三崎4-12-112.三浦義村が創立した「福寿寺」
冒頭でもお話した山本耕史さん演じる、クールで切れ者の三浦義村は「福寿寺」を創建しました。入り口は長い門柱が目印で、その奥にはワクワクするような美しい急階段が見えます。登りきると、木造で落ち着いた雰囲気の福寿寺が現れます。瓦屋根には、三本の線の三浦一族の家紋が表現されています。
義村が愛用していた鎧などが寺宝となっています。幾つもの戦いを生き抜いた鎧は迫力がありそうですね。大きくて立派な鐘楼やエベレストを日本人初登頂した「植村直己氏」やドラマ南極大陸のモデルにもなった登山家「西堀栄三郎氏」、世界一周単独ヨットマン「多田雄幸氏」の3人の顕彰碑があります。油壺ヨットハーバーで多田と西堀が出会い、植村の北極点犬ぞり単独行の計画に協力することになったそうです。世界で活躍した冒険家たちがこの三浦市に引き寄せられたのも、ご先祖さまの影響があるかもしれませんね。
三浦一族を最も繁栄させた義村の墓場は、福寿寺の近くにあります。関東大震災時に、義村の墓石が 海まで落ちてしまい石塔になってしまいました。しかし、地元民の有志によって、旧墓の近くに再建されました。とても立派なお墓です。この土地を開拓した義村への愛を感じますね。
金田港の近くにあり、メイン道から細道に入っていくため、普段なら通り過ぎてしまいますが、大河ドラマののぼりで初めて知りました。細い農道が多く駐車が限られているので、バスやレンタサイクルがオススメです!
三浦義明の孫、杉浦義宗を父とする和田義盛は、三浦義村の従兄弟になります。父の死をきっかけに16歳で相模国三浦郡和田に本拠地として移り住みました。この地域には、義盛の名跡がたくさんあります。
それもそのはず、三浦一族の武将でもあり、鎌倉幕府の創建に重要な人物の1人です。義盛は、感情的に行動する人間味溢れる人物として、鎌倉時代の歴史書に記されていますが、ドラマでも忠実に描かれています。
源頼朝の死後、天下を狙う北条義時に挑発されて、1213年(建暦3年)の和田合戦にて和田一族は滅亡しました。1263年(弘長3年)に農民たちは、和田義盛の善政をしんで領地としていた土地が一望できる高台に神殿を設け、白旗神社と称しました。祭神は、和田義盛でしたが天照大神も合わせて祀られることとなり、神明の冠が付き、神明白旗神社と呼ばれるようになりました。
白旗神社の由来は、和田義盛が1186年(文治2年)、平家討伐に出陣し大勝を収め、和田城内を開放して紅白の旗を建て、城内鎮護の八幡社に勝利を報告したことから始まりました。その時、領民を交えた酒席での戦勝の舞「初声」を舞ったとされ、地名も「初声町」となりました。
白旗神社
神奈川県三浦市初声町和田1746みうら観光ガイドのホームページでは12箇所の「鎌倉殿の13人」のゆかりの地を紹介しています。ご興味のある方はぜひ、こちらもご覧ください。
私は「鎌倉殿の13人」を観る前にゆかりの地を訪れましたが、看板の説明を読んでもイメージができませんでした。しかし、ドラマを通して人物や時代背景を学び、三浦市のご先祖さまや土地をもっと身近に感じることができました。
私は、5年ほど海外生活をしていました。海外生活していると、日本の歴史についてよく聞かれます。私は日本史が不得意のため、何も答えられませんでした。なんで日本人は自分の国を知らないで海外に来ているの?と言われるほど。とても恥ずかしく思うと同時に、知識欲が生まれた今では、積極的に学ぶようになりました。
生まれ育った国や土地の歴史を学ぶことで愛国心が芽生えて、自分が今ここにいるのはたくさんのご先祖さまのおかげだと感謝の気持ちも生まれました。
ぜひ、皆さんも自分の住んでいる土地の歴史を学んでみませんか?